失敗
こんばんは、はらです。
私事ではございますが、1年ほど前に転職をしました。
転職直後からコロナショックを受けてバタバタとしておりますが、中々毎日楽しいです。
ところでもう4年も前のことになります。
そろそろ時効でしょうから、私の人生における一番の失敗をお話します。
大学を中退したことであったり、大学でわざわざ幅の狭い数学を選択したことであったり、タバコを吸い始めた事であったり、傍から見ると失敗に見える事の多い人生ですが、それらに関しては僕自身で選択した事ですから、失敗と思っておりません。
僕の人生における一番の失敗、つまり僕が、自分の働くお店を潰した話をします。
今から4年とちょっと前、僕の勤めていたバーが閉店しました。
割と普通のショットバー。
店員もお客さんも若くて、値段が安くて、クローズの時間が普通よりもちょっと甘いショットバー。
カクテルの出来映えで言えば、バーの中では中の下くらいでした、多分。
いや、下の上かもしれない。
そんな店でした。
僕はそのさらに1年前まで、系列店の別のお店で働いていたのですが、そのバーがとても好きだったので異動することにしました。
僕が入る遥か昔から、そのバーの売上は芳しくありませんでした。
しかし僕はそのお店がとても好きでしたし、それまで経理や人事に関わる事などをやっていた自信が多少あったのでしょう、経済状況の芳しくない店を何とか存続させたい一心で異動を決めました。
移って最初の月末締め、損益を確認した私が抱いた感想は一言、「ああもうこの店は潰れるな」でした。
もう本当に、笑っちゃうくらい何もかもが噛み合っていませんでした。
どうあがいても、今のままの営業スタイルを貫いては店を存続させることが出来ません。
どうしよう。
私は非常に悩みました。
私は、その店と、そこに来るお客さん達が大好きでした。
店を続けるためには、営業スタイルを大幅に変更することしか、手段がない。
でもそれは、既存の顧客を手放す事になる。
しかし、既存の顧客に寄り添うことが店舗の存続に繋がらないということは、既存の店舗に社会的なニーズはないと言う事に他ならなくて、そんなことは分かっていて。
その瞬間から、私の約1年間の苦悩の日々が始まりました。
まず、本当に余計なことが多すぎました。
OB、これが本当に最悪でした。
このブログの読者の方は、アイドルオタクの方がおそらく比較的多いでしょうから、すごく分かりやすくご説明させていただきますと、「遥か昔現場に通っていて、荒らすだけ荒らして規制ばかり厳しくさせた害悪な古参オタクが、たま〜にサプライズのように現場に現れて、ひとしきりイキリ散らかした上に、また暴れ回って周りは迷惑する中満足気に帰る」みたいなイベントが月に1〜2回起きました。
最悪ですよね、普通に。
その上で「お前らに力がないのが悪い」みたいな事を言ってくるんですよ。
いや、あなた方のおかげさまで今我々は困っているんですが…と言ってあげたい気持ちをグッと押さえていつも、早く帰んないかなーと思っていました。
ただでさえ毎晩のようにお酒を飲み、夜更かしを続け、大学にも中々通えずボロボロな心身を痛めつけてくださる非常にありがたい方達でした。
同店の店長。
同い年の店長がいたんですけど、「俺はやるぜ」「やんなきゃいけねえ」みたいな事ばっかり言って何もしないんですよね。
こちらは皮肉にも、「メジャーデビューしたい!」と言いながら一向にライブに代わり映えのしない、地下アイドルみたいですね。
あの店は地下アイドル現場だったのかもしれません。
しかも最悪な事に、徐々に時間が経ってくると店が閉店に一歩一歩近付くのを感じたプレッシャーからか、何故か情緒が不安定になってこちらに当たってくるんですよ。
一週間バックレて、何食わぬ顔で戻ってきた時はもう怒りを通して呆れました。
とは言え、結局一番悪かったのは、自分でした。
何ヶ月も過ごしていく中で、もちろん日々の営業が辛すぎるとか(家が遠すぎて遅番に入ると家に帰る事が出来ない)、自分の分の仕事をしても周りの人間が何もしてくれないとか、何もしてくれないとオーナーからめちゃくちゃに問い合わせが来るので全部自分のせいにして後始末したりだとか、そういう辛いことはたっくさんあったけれど、結局のところ、あの店の中でその状況をリアルに捉えているのは自分で、そして何もしなかったのもまた自分だと。
僕はあの店を存続する手段を持ちながら、何もしなかった。
つまり、あの店は僕が潰したんだと、そう思います。
これは自分をそう納得させたということではなくて、当時からそう痛感していた事です。
失敗を受けてじゃあこうしよう、先に繋げよう、なんて一切考えておりませんし、考えるつもりもありません。
僕は僕の大好きだったお店を潰し、結果的に大好きだったお客さんの居場所を奪った。
その事実を忘れる事無く、ただ受け止め続けるのみです。
実は今でもたまに当時のお客さんと話す機会は少しだけあって、当時の話が出ると、少し、胸が痛みます。
イエロー
お久しぶりです、はらです。
随分久しぶりの投稿となりますが、何とか2020年内の更新が出来そうでほっとしています。
年末も近付き、冷え込んできた今日この頃。
皆さんどんな一年でしたでしょうか。
僕は今年は、週の半分くらいはスーツに袖を通しておりました。
あれは本当に好きになれないですね。
スーツそのものは嫌いじゃないんですが、何だか一度着始めると、毎日着ることを義務付けられるような気がして、それがどうも苦手です。
客先に行かない時くらい、別に家で仕事をしていてもいいんですが、どうしてもコピーを取りたいとかでオフィスに行かなければならない時は困ります。
一々スーツに着替えて行ってやるわけです。
本当はそんな決まりはないらしいんですが、こう何というか、同調圧力のようなものに少しやられまして。
最初普通に私服で行っていたら、「さすがにサンダルは…」「短パンはちょっと…」等と周囲からお小言を食らい(夏頃のお話です)、それからだいぶ譲歩してチノパンで通っていたらそれでも「すごい格好してるね」とか何とか…。
弊社内の男性陣のオフィカジスタイルは基本的にかなりアレなので、アレと同じようなものを着ろと言われる前に、面倒くさいからスーツ着ちゃおう、となったわけです。
個人的には「パジャマからわざわざよそ行きの服に着替えてやってるんだから一々文句言うなよ」と言ってやりたいところでしたが、僕も大人になりました。
本当に褒めてほしい。
そんな中、仕事中に移動で電車に乗っていたところ、乗ってくるひとりの女性に目が行きました。
全身綺麗に黄色で纏められていて、カラフルなスカートを履いて乗車してくるのを見て、何だかいいなあと、憧れに近い気持ちを抱いてしまった事が、少し恥ずかしくなりました。
僕も早く、服装なんかでとやかく言われないようになりたいものです。
大人と子供
中学生の時の社会科の先生が、やたらと「責任」と言う言葉を好んでいたことを覚えている。
それは時に英語で「Responsibility」と彼の口から発せられたりなどした。
中学二年生の時だけ在籍していたバトミントン部の顧問でもある彼は、時たま練習に不真面目な僕らに「俺は大した給料も貰っていない中こうやって休日も練習に顔を出しているのに、その態度は何なんだ」と怒っていた。
うるせーそんなもん、自分の責任だろ、とはらは腹の中で思っていた。
練習試合に向かう彼の自家用車の臭いがキツく、部員の誰もが乗車を避けて保護者の車に一目散に乗り込んでいたことを覚えている。
それもまた、彼の機嫌を損なわせる要因になった。
責任と言う言葉は、実に難しい。
責任を取ると一口に言って、それを説明出来る人間が一体どれだけいるんだろう。
「責任を取って辞職する」という事は往々にしてある出来事だが、それもまた無責任なのではないか、と糾弾されうる。
責任とは、「もう最悪、如何なる手段を用いても、自分で何とかする」と言う事なのではないかと思う。
腹をくくるのだ。
いやもうこれは、自分が何とかするしかない、と。
それでも何か失敗が発生するようなら、自分がその批判を一手に引き受けるしかない、と。
何か不具合が発生した場合に、「これはあいつが悪い!」と批判することは、無責任だ。
だったら任せなければいいじゃないか。
最初から自分が役割から逃げているのに、石を投げる権利なんか君にあるのか。
何ともならないこともある。
ならば、能力が足りなかったんだ、きっと。
あるいは未来を予測することを怠った。
どの道、何か自分に不利益が発生した場合、責任はその本人にある。
責任の所在は大抵、一所におさまりはしない。
何人かが関わって、その組織、あるいはグループに何か不利益が発生したのなら、それは多分、全員の責任なのだ。
しかしどうして、それを自覚出来るような環境は、そうめったにない。
一度追い込まれてもみない限り、過剰にシステム化し、他者批判の蔓延る現代では、自己責任と向き合うような機会は、そうそう訪れるものではない。
今の、形式上弱者に超優しい世界では、こんな別種の優しさを持った批判をしてくれる人もそういないからだ。
本来の意味で利益を講じるためには、責任の持ち方から、学ばせてあげるべきなのだ。多分。いや、人によるかな。どうかな。
正解
こんにちは、はらです。
突然ですが皆さんには心に残っている言葉って、ありますか?
僕はあります。
以前勤めていたカフェで、同い年の女の子が退職する時に僕に宛てた一言です。
その女の子はとてもとても優秀で、仕事もバリバリこなすし、人望も厚いし、お酒も当時のカフェのメンバーの中で考えると飲めた方だし、ちょっぴりタバコも吸うし、端的に言うとカッコいい子でした。
その子が辞める日に、フォトブックを人数分自作し、メンバーそれぞれに向けて最後のページに一言ずつ綴っていたのですが、その一言が今でも僕の心にずっと残っています。
数多いるスタッフへ、想い出や励ましの言葉が綴られる中、僕宛にはたった一言こんな言葉が書き殴られていました。
「何も出来ない自分を恥じろ。」
正直、かなりびっくりしました。
温かいメッセージが書かれたそのフォトブックを、メンバー皆何度も読み返し、大切そうに持ち帰る中、僕一人、一目みた瞬間に怖くて冊子を閉じたことを今でも覚えています。
当時の僕はどうしようもない甘ったれで、理想を語るばかりで自分は怪我をすることを恐れて具体的な事は何一つしていませんでした。
彼女はとてもとても優秀でしたから、そんな僕の姿を見て思うところがきっと、たくさんあったのでしょう。
それから、この言葉はいつも僕の側にあったような気がします。
怖くて立ち止まる事はあっても、とにかく何もしないだけの人には、何も出来ないし、誰かに何かを言う権利も無いのだと、その事をずっと念頭に置いています。
自己啓発本や、数々の著名人達の成功体験が文書化され、またインターネットを通じて見る事が出来る昨今、人々の行動原理が揺らいでいるように感じます。
僕は自分が話すことが幸か不幸か大好きなので、すぐあーだこーだ、所構わず喋くりまわってしまいます。
しかし僕の体験や感想、また行動は、あくまでこの、根暗で、いらんことばっかりいつもグルグルと考える面倒くさい僕だからこそ場面場面で叩き出しているだけのものであって、それが万人に通ずるかと言うと、決してそんなことはない、と思います。
例えば僕は「考えろ」と言う言葉がとても好きです。
これは僕が好きな伊坂幸太郎と言う作家が「魔王」と言う作品で出したセリフのひとつなのですが(正確には、僕がこの言葉に触れたのは「グラスホッパー」という作品を合わせてコミカライズした漫画の中でした)、果たして人々全員が、その行動を決める時に考えるべきなのか、とも思います。
直感が働く人にとっては、それを意識下でも無意識下でも考えずに、その感性の赴くがままに行動をした方が懸命でしょうし、逆に考える事によって発生する不利益は見逃せません。
僕はそれまで触れ合ってきた感性豊かな若者が(僕もまだまだ若輩の域を出ませんが)、ある日を境に唐突に自らの行動原理について語り始めると、「僕はまたこの未来ある若者に、悪影響を及ぼしてしまったのではないか」と苦痛で胸が張り裂けそうになります。
先行きの分からぬまま何かを起こす事は、とても怖い事です。
少しでも指針となるようなものが欲しくて、他人の体験談ばかりを眺めてしまう気持ちも分かります。
しかし我々20代にとって人生はまだまだ、飽きる程に長いので、もう少しゆったりと生きていきたいものだなと思う日々です。
ぼくのおかあさん
少しだけ昔話をします。
僕のお母さんはめちゃくちゃ強いです。
男3人育てただけあってまず戦闘力が高いです。
げんこつを振り下ろせば「ゴチン!」と音が出る事で有名で、近所に住む幼なじみの家だと、言う事を聞かない娘に「ワガママ言ってるとはらくんちのママ呼ぶよ!」と一喝するだけで泣いて謝るほどだったそうです。
門限を一分でも過ぎれば鍵をかけて家から締め出されるし、口答えしようもんならほっぺたをひねり上げて「何か言った?」と追撃をくらいます。
泣いて謝るまで決して許してもらえません。
非常に恐ろしくたくましい母でした。
それは三兄弟に限った話ではなく、同級生だろうと近所のガキんちょだろうと悪さをしようもんなら問答無用で怒りの鉄槌が下されます。
あとそう言えば、当時住んでいた家の裏には雑木林があり、度々大量発生するハチを叩き殺したりしていました。
強く、怖い母親でした。
怖いだけなら憎んでいたでしょう。
しかし母はそれに加えて、社交性に優れ、休日は家庭菜園に精を出す、そんな一面もありました。
高校の謝恩会で司会を務めた母が、巧みな話術で会場を笑いの渦に巻き込んでいたことが忘れられません。
言葉を失った僕に、級友達が口を揃えて「何でお母さんあんなに話すの上手いのにお前はそんな話すの下手なの?」と突っ込んできた時は思わず「あそこまでだとは俺も知らんかった」と頭を抱えました。
僕にとってお母さんは最強でした。
ついでに、綺麗でした。多分。
授業参観に彼女が現れると女子一同、あれは誰の母親だとざわつきます。
そしてお決まりの一言。
「何でお母さんはあんなに綺麗なのに、はらは(以下省略)」
どこまでも比べるのが好きな人種ばかりです、日本人なんて。
ところで僕は小学校中学年くらいまで、まるっきりカナヅチでした。
学校の水泳大会の記録はいつも、1m。
水に勢い良く飛び込んで、それでおしまいです。
終わるといつもクローゼットに閉じこもって泣いていました。
そんな僕を見かねた母が一言。
「あんた、いつまでも泣いてんじゃないの。」
「だって何も出来なかったんだもの。」
「あんたは何かしたの?」
あまりの正論にぐうの音も出ませんでした。
次の休みに、僕は母親にスイミングスクールへと連行されていきました。
カナヅチ解消のために始めた水泳。
思ったよりも僕と水泳は相性が良かったらしく、四泳法をさっさとマスターし、グイグイとタイムが伸びていきました。
あんなに苦手だった水泳が、こんなにも楽しいものだったのかと、当時の僕はワクワクして仕方なかったです。
そんな中、一年越しに迎えた水泳大会。
慣れない環境に緊張したのか、力が入りすぎたのか、記録は18m。
えっ、何で。と僕はまたクローゼットでシクシクと泣くことになりました。
「あんたねえ」
特別僕を抱きしめる事もせず、母は部屋の入り口で、腕を組みながらタンスに寄りかかり、こう言いました。
「もう泳げるんだから別にいいじゃないの。」
子供だった僕は多分、お母さんにいいところを見せたいとか、そんなことを思っていたんだと思います。
でも何だかその一言で、別にいいのか、とスッとしたのを覚えています。
そう、別にいいのだ。
スイミングスクールで毎週何キロも泳いでいる訳で、スイスイと級もタイムも伸ばし続けていた訳で、断ってしまったけれどコーチから「選手コースおいでよ」なんてお声もかかっちゃったりして、僕は泳げるようになったのだから、ついでにとても水泳が好きになったのだから、これで全然良かった。
おかげさまで体力も筋肉も基礎がしっかり出来たし、水泳についてのこの出来事は一つ、僕の大きなターニングポイントになりました。
僕も、願わくばああいう親になりたい。
ところでこれは完全に余談なのですが、件の僕が最後に泣いた水泳大会で、母はプールサイドであめ玉を喉に詰まらせた弟を逆さ吊りにして振り回していたため、母親どころかその場にいたほとんどが、僕の泳ぎは見ていなかったとさ。
おしまい。
ピーマンの肉詰め
突然ですが皆さんはピーマン、お好きですか。
僕は結構好きです。
味や香りももちろんのこと、食感がいいですよね。
バキッともブリッとも形容できそうな、野菜とは思えない肉厚感。いいですよね。
そんなピーマンですが、野菜食が広く根付いた今でも、何となく嫌われ者のイメージが強いです。
小学生の時に、一個上に「ピーマン」と呼ばれている男の子がいました。
何でもお遊戯会で、本人の名前にちなんで「ピーマン」と言うヒーローを演じたのが由来しているのだとか、僕らも彼のことを慕って「ピーマン」と呼んでいました。
ある日、クラス担任のおばあちゃん先生に「ピーマンなんて失礼ね。」と言われたことがありました。
なんで?と僕らがおばあちゃんを見上げると、おばあちゃんは「ピーマンって中身スカスカって意味じゃない。」と説明してくれました。
もしかしたら、おばあちゃん先生はもう大分おばあちゃんでしたから、ちっちゃくなっていて見上げてはいなかったかもしれません。
その辺は御容赦ください。
まあとにかく、その時僕はとってもいや〜な気持ちになったのを覚えています。
いいじゃんピーマン。
美味しいじゃんピーマン。
呼びやすいじゃんピーマン。
僕らは「ピーマン」の事が大好きだったのに、何となくその気持ちすら否定された気がしてとても悲しい気持ちになりました。
そんなの放ってくれればいいのに、と言う感じですよね。
ところで「ピーマン」は本当に優しいいい子で、いつもニコニコして年下の僕らの話を聞いたり、一緒に遊んだりしてくれました。
だからでしょうか、小さなひき肉のタネをそっと抱きとめるピーマンの肉詰めを見ると、僕は今でも彼のことを思い出してしまうのです。
ふるさと
あのね、始める前にひとつ言い訳させてください。
前回10月25日にブログを更新した時に、本当は「11月はニュースなどを見て、時事ネタを取り込んだブログを毎週更新しよう」と意気込んでいたんですよ。
ところがどっこい、もう11月23日になってしまったではありませんか。
キングクリムゾンもびっくりですね。
ちょっと今月は忙しくて、当然新たにニュースを見始めることもなかったですし、先週なんて体調思いっきり崩してほとんど寝ていましたからね。
まあ気長にやっていこうと思います。
今僕は実家にいるんですが、実家ってのはすごいですね。
当たり前に食べ物が豊富にあって、当たり前に洗顔は「使ってみんしゃい よかせっけん」なんです。
浴室乾燥もついているし、趣味の合う弟もいる。
そう言えば彼、メキメキとギター弾くのが上手になっていたんですが最近はどうなんでしょう。横の部屋からギターの音が聞こえないのが少し残念です。
自室に帰れば高めのベッドも、いい感じのクッションもある。
こんないい環境で4ヶ月前まで生活していたなんて、と感心します。
何よりも、静かなのがいいですね。
木場は少しうるさすぎる気がします。
この時間になるともう人通りも少ないですし、うちの家族はもちろんとっくに寝ています。
少しひんやりとした静かな部屋で、キーボードのタイピング音だけが鳴り響いているのはとても心地よいものです。
月に一度は帰っています。
どうやら僕は、遠いだの猫が鬱陶しいだの散々言っておいて、何だかんだこの家が大好きみたいです。