台風

「何でキスしてくれないの?」

ある日僕は、路地裏で追い詰められていた。

目の前には怒ったフランス人の女の子がいる。

どうしようかと困惑していた。

とにかく僕は、キスをしたくなかったのである。

 

 

もちろんのこと、これは恋愛小説ではない。

欧米人には、会った時や別れ際にキスをする文化がある(ようだ)。

仕事の合間、職場の近かった僕らは、路地裏で一緒にタバコを吸うことが日課になっていた。

毎回、とりとめのない話をする。

本を書きたいのだとか、上司がわがままだとか、日本の文化は陰湿だとか、彼氏と喧嘩をしたとか、僕は主に聞き手に回っていたのだけれど、そんなことばかり話して、10分もしない内に「またね」と解散する。

その日もそんな風に、普通に別れるものだと思っていた。

ところが、違った。

 

「そう言えば、別れ際のキスを忘れてたわね。」と突然彼女が言い出した。

また冗談を…と思った僕は、「まあ、しなくていんじゃない。」と軽く返した。

その瞬間、彼女は激怒した。

「私と原はこんなにも仲が良いのに、キスをしないなんておかしい。」と主張し始めた。

「あ、いや、でもそれは…それだけは……。」

タジタジである。

 

 

 

僕にはどうしても克服できない、苦手なものが二つある。

女性と、怒っている人だ。

女性と会うときはいつも過度に緊張する。

緊張しすぎて前職で、受付嬢のお姉さんにランチに誘われた際に、「いや僕、昼ごはん食べない人なので…」と意味不明な断り方をしたことがあるくらいだ。

怒っている人を見ると、非常に不安定な気持ちになる。

怒りを向けられるのがそもそも苦手だし、怒っている人は大抵、言っていることが支離滅裂でどうすればいいのかわからない。

 

昔、一緒に働いていた男がこんなことを言っていた。

「怒っている女性は、台風みたいなもんだから。」

つまり、過ぎ去るのを待つしかない、と。

しかしこの時ばかりはそうも言ってられない。

 

何せ彼女は、僕の左腕を鷲掴みにし、目の奥が怒りで燃えていた。

「私の住んでいたフランスではこんなこと当たり前のことなのよ?」

知るか、ここは日本だ。

僕はとにかくキスをするのが嫌で嫌で、勘弁してくれとこのまま土下座してしまいそうな勢いだった。

 

押し問答を繰り返していると、彼女が突然僕の左腕を離した。

「仲良しなのに…。」

非常に悲しそうな顔をしている。

そう言えば、僕にはもう一つ苦手なものがある。

それは、悲しそうな顔をした人間だ。

見てしまうと、男女問わずその人のために何でもしたくなる。

 

「…………わかったよ。」

僕は観念して、彼女と真っ直ぐ向き合った。

一瞬躊躇し、何だかやり方もよくわからないまま、映画で見たのと同じように、僕は彼女の両頬に挨拶のキスをした。

これで合っているのか…と不安になったが、彼女は満足気に「バイバイ」と去っていった。

 

何だか日本人たる僕が、欧米文化に屈服したようで妙に悔しかった。

そして、非常に、ものすごく、どっと、疲れが込み上げてきて、僕はトボトボと仕事場に戻った。