猫
2018年もあと7時間くらいで終わりますね。
こんにちは、年の瀬の原です。
久しぶりに電車の中でポチポチ書いています。
あんまり前置きが長くなってもアレなんで、さっさと本題に行きましょう。
ある日小森うずらちゃんとチェキを撮っている時のこと、うずらちゃんから「動物園とか行くの?」と聞かれた僕は「いや、行かないかな…。」と答えた。
と言うのも、どうにも動物を可愛いと思えない。
仮に思ったとしても、どう触れたら愛でる行為として成立するのかが分からず、道端で散歩中の犬と遭遇したおばちゃんよろしく、動物の顔をわしゃわしゃしたりすることが出来ない。
水族館も同様。
臭いし、可愛いともさして思えない生き物が小分けにされた場所に行っても、それらを可愛いと言っている人の顔を見てこんな顔するんだな、などと楽しむことしか出来ない。
しまいには怒られたりする。
「私じゃなくてあの子が可愛いって話してるんだけど!?ちゃんと見てよ!!!」
ぐぬぬ…そう言われましても…。
キリンは図鑑で見るのと大差ないし、色々な種類を取り揃えた猿のコーナーはどれがどれだかよく分からないし、パンダは白いところが結構土で汚れていて白黒と言うよりも茶黒っぽいし…。
きっかけは猫だった。
昔、小学生くらいの頃の僕は普通にその辺にいる猫とか、おじさんちの犬と戯れる少年だった。
犬のヨダレがズボンに付くのはちょっぴり嫌だったけど、おじさんの家の床を犬と一緒にゴロゴロしたりしていた。
そんな少年時代のある日、学校から家に帰る途中の事だった。
その道には、いつも前を通る飴工場がある。
四角くて、頭が赤いキノコみたいな見た目をしていた。
甘ったるい匂いが何となく嫌だった。
横にはトラックが止まっていたり止まっていなかったりした。
一人でポツポツと歩いていると、飴工場の前に、何か雑巾のようなものが落ちていることに気が付いた。
それが、猫だった。
猫の死骸。
きっと飴工場から出てきたトラックに轢かれてしまったのだろうな、と思った。
何故かその死骸から目が離せず、マジマジと見てしまった。
タイヤ痕の残る、圧迫された胴体。血と内臓でぐちゃぐちゃでもうよく分からない。
片方の目玉が飛び出てしまっている。
だらしなく垂れた舌。
これ以上の苦痛はあるのか、と思うほど酷い顔をしていた。
それらをマジマジと見た後、原少年は特にそれに触れることもなく家に帰った。
その頃から、僕はどうにも動物に触れなくなってしまった。
可愛いとも思えない。
結局死ぬわけだし、何を考えているのか分からないし、何よりあの日の猫がチラつく。
ところでうずらちゃんと接触をして「行かない」と答えた日、うずらちゃんにそのまま「私たち、合わないね!」と言われてしまったのだけれど、どうなんだろう。
これは克服した方がいいんだろうか。
と言うか、克服出来るものなんだろうか。