僕はさほど会話が上手でない。

大人数で会話をしていると、「そういえば」という言葉を皮切りにそれまで進行していた話題からかけ離れた内容で勝負を仕掛けてしまうことが多々ある。

少人数でも、相手の話にただ頷くだけになってしまうことが多い。

 

これが、最近になってより一層ヘタクソになってしまったように感じる。

会話中に生まれる、ほんの少しの空白に妙に不安になり、それを埋めようと意味不明な言葉を連打してしまうことが最近、非常に多い。

お酒を飲むと更に支離滅裂になるため、翌日は大抵、自身の悪行に頭を抱える。

 

 

思うに、「会話をする」というのは、「プレゼンテーションをする」ことであったり、「ディベートをする」というのとはまた少し訳が違うと思うのだ。

もちろん、特定の話題について時にそういった形式になることもある、し、それを出来る相手というのは、その人にとって結構貴重な存在だろうとも思う。

中々どうして、同じ趣味であっても自分と同じ温度感で物事を考えている人というのは見つけづらいからだ。

 

しかし、日常的にこれを行ってばかりでは疲弊してしまう。

もっと、考えではなく心を触れ合わせることに、会話の醍醐味はあるのではなかろうか。

 

 

ところで、昔はもう少し歩いているときの視野が広かったような気がする。

最近どうも「歩いている記憶」というものがあまりない。

「こんなところに店が出来たのか〜」だったり、「あの看板、あんなこと書いてるんだ」みたいな発見が極端に少なくなったような気がする。

歩いているときに限らず、日常生活を送る中で、自分の生活圏が定まっていき、日々接する人々がある程度決まってくると新しい発見もさしてない。

 

 

僕は思う。

ユニクロのマネキンってさ、全部ちょっとずつ前に傾いているんだよ。」みたいな、日常のささやかな発見を、会話の中で口に出したい。

冷静に考えればあれはディスプレイの一環であるため、そりゃ下から見上げる人がきれいに衣服を眺めるためには前傾であって然りなのだけれど、そういう小さい細かいことに、何気なく気付ける人間でいたい。

と言うか、「みんな知ってるものだけど、その事実は知らなかったし、何それちょっと興味そそるじゃん」みたいな会話のテーマを投げかけられる人が、会話が上手い人なんだろうなと思う。

未知のテーマに対して、参加者がほぼ全員、それに対しての知識量や熱量がフラットな状態で、よーいドンと会話をスタート出来る。

 

そういうスターターみたいな人間に、僕はなりたいのだ。