大人と子供

中学生の時の社会科の先生が、やたらと「責任」と言う言葉を好んでいたことを覚えている。

それは時に英語で「Responsibility」と彼の口から発せられたりなどした。

中学二年生の時だけ在籍していたバトミントン部の顧問でもある彼は、時たま練習に不真面目な僕らに「俺は大した給料も貰っていない中こうやって休日も練習に顔を出しているのに、その態度は何なんだ」と怒っていた。

うるせーそんなもん、自分の責任だろ、とはらは腹の中で思っていた。

練習試合に向かう彼の自家用車の臭いがキツく、部員の誰もが乗車を避けて保護者の車に一目散に乗り込んでいたことを覚えている。

それもまた、彼の機嫌を損なわせる要因になった。

 

責任と言う言葉は、実に難しい。

責任を取ると一口に言って、それを説明出来る人間が一体どれだけいるんだろう。

「責任を取って辞職する」という事は往々にしてある出来事だが、それもまた無責任なのではないか、と糾弾されうる。

 

責任とは、「もう最悪、如何なる手段を用いても、自分で何とかする」と言う事なのではないかと思う。

腹をくくるのだ。

いやもうこれは、自分が何とかするしかない、と。

それでも何か失敗が発生するようなら、自分がその批判を一手に引き受けるしかない、と。

何か不具合が発生した場合に、「これはあいつが悪い!」と批判することは、無責任だ。

だったら任せなければいいじゃないか。

最初から自分が役割から逃げているのに、石を投げる権利なんか君にあるのか。

 

何ともならないこともある。

ならば、能力が足りなかったんだ、きっと。

あるいは未来を予測することを怠った。

どの道、何か自分に不利益が発生した場合、責任はその本人にある。

 

責任の所在は大抵、一所におさまりはしない。

何人かが関わって、その組織、あるいはグループに何か不利益が発生したのなら、それは多分、全員の責任なのだ。

 

しかしどうして、それを自覚出来るような環境は、そうめったにない。

一度追い込まれてもみない限り、過剰にシステム化し、他者批判の蔓延る現代では、自己責任と向き合うような機会は、そうそう訪れるものではない。

 

今の、形式上弱者に超優しい世界では、こんな別種の優しさを持った批判をしてくれる人もそういないからだ。

本来の意味で利益を講じるためには、責任の持ち方から、学ばせてあげるべきなのだ。多分。いや、人によるかな。どうかな。