ぼくのおかあさん

少しだけ昔話をします。

僕のお母さんはめちゃくちゃ強いです。

 

男3人育てただけあってまず戦闘力が高いです。

げんこつを振り下ろせば「ゴチン!」と音が出る事で有名で、近所に住む幼なじみの家だと、言う事を聞かない娘に「ワガママ言ってるとはらくんちのママ呼ぶよ!」と一喝するだけで泣いて謝るほどだったそうです。

門限を一分でも過ぎれば鍵をかけて家から締め出されるし、口答えしようもんならほっぺたをひねり上げて「何か言った?」と追撃をくらいます。

泣いて謝るまで決して許してもらえません。

非常に恐ろしくたくましい母でした。

それは三兄弟に限った話ではなく、同級生だろうと近所のガキんちょだろうと悪さをしようもんなら問答無用で怒りの鉄槌が下されます。

あとそう言えば、当時住んでいた家の裏には雑木林があり、度々大量発生するハチを叩き殺したりしていました。

強く、怖い母親でした。

 

怖いだけなら憎んでいたでしょう。

しかし母はそれに加えて、社交性に優れ、休日は家庭菜園に精を出す、そんな一面もありました。

高校の謝恩会で司会を務めた母が、巧みな話術で会場を笑いの渦に巻き込んでいたことが忘れられません。

言葉を失った僕に、級友達が口を揃えて「何でお母さんあんなに話すの上手いのにお前はそんな話すの下手なの?」と突っ込んできた時は思わず「あそこまでだとは俺も知らんかった」と頭を抱えました。

 

僕にとってお母さんは最強でした。

 

ついでに、綺麗でした。多分。

授業参観に彼女が現れると女子一同、あれは誰の母親だとざわつきます。

そしてお決まりの一言。

「何でお母さんはあんなに綺麗なのに、はらは(以下省略)」

どこまでも比べるのが好きな人種ばかりです、日本人なんて。

 

ところで僕は小学校中学年くらいまで、まるっきりカナヅチでした。

学校の水泳大会の記録はいつも、1m。

水に勢い良く飛び込んで、それでおしまいです。

終わるといつもクローゼットに閉じこもって泣いていました。

そんな僕を見かねた母が一言。

「あんた、いつまでも泣いてんじゃないの。」

「だって何も出来なかったんだもの。」

「あんたは何かしたの?」

あまりの正論にぐうの音も出ませんでした。

次の休みに、僕は母親にスイミングスクールへと連行されていきました。

カナヅチ解消のために始めた水泳。

思ったよりも僕と水泳は相性が良かったらしく、四泳法をさっさとマスターし、グイグイとタイムが伸びていきました。

あんなに苦手だった水泳が、こんなにも楽しいものだったのかと、当時の僕はワクワクして仕方なかったです。

そんな中、一年越しに迎えた水泳大会。

慣れない環境に緊張したのか、力が入りすぎたのか、記録は18m。

えっ、何で。と僕はまたクローゼットでシクシクと泣くことになりました。

 

「あんたねえ」

特別僕を抱きしめる事もせず、母は部屋の入り口で、腕を組みながらタンスに寄りかかり、こう言いました。

「もう泳げるんだから別にいいじゃないの。」

子供だった僕は多分、お母さんにいいところを見せたいとか、そんなことを思っていたんだと思います。

でも何だかその一言で、別にいいのか、とスッとしたのを覚えています。

 

そう、別にいいのだ。

スイミングスクールで毎週何キロも泳いでいる訳で、スイスイと級もタイムも伸ばし続けていた訳で、断ってしまったけれどコーチから「選手コースおいでよ」なんてお声もかかっちゃったりして、僕は泳げるようになったのだから、ついでにとても水泳が好きになったのだから、これで全然良かった。

おかげさまで体力も筋肉も基礎がしっかり出来たし、水泳についてのこの出来事は一つ、僕の大きなターニングポイントになりました。

 

僕も、願わくばああいう親になりたい。

 

 

ところでこれは完全に余談なのですが、件の僕が最後に泣いた水泳大会で、母はプールサイドであめ玉を喉に詰まらせた弟を逆さ吊りにして振り回していたため、母親どころかその場にいたほとんどが、僕の泳ぎは見ていなかったとさ。

おしまい。