大切なお知らせ

今日は、悲しいお知らせがある。

それは、「残念ながら、君に才能なんてものはない。」と言う事だ。

社会とのギャップを感じている人、自分についてこれない周りに怒りを覚える人、小さな成功体験をその学生時代に積み重ねた人、様々だろう。

残念ながら、その誰にも、才能なんてものはない。

と言うか才能がある人は、こんなしょうもないブログを読んでいるわけがないのだ。

 

 

世の中には、二種類の人間がいる。

「持っている人」と「持っていない人」だ。

持っている人はとことん持っている。

周囲の環境に恵まれ(単純に富んでいると言う意味ではない)、努力を惜しまず、何より勘が鋭い。

持っていない人は、残念ながらそこにたどり着くことが出来ない。

どれだけ努力をしても、どれだけ頭を振り絞っても、必ず「持っている人」はそれを超えてくる。

 

だから僕はこのブログをひょっとしたら読んでいるかもしれない、学生達にこう伝えたい。

大学は、辞めない方がいい。

 

 

◯大学を卒業することについて

現代の日本では、個人を指し示すために、名前や外見的特徴なんかよりも肩書きの方がよっぽど重要だ。

××大学の誰それさん、であるとか、△△社に勤めている何とかさん、のように大学名や社名、もしくは団体名で認識されることの方が多い。

 

その昔高校生の僕は、授業が午後からだったために地元の駅を闊歩していたところを警官に補導されそうになったことがある。

「君、どこの中学校の子?何してるの?」

「いやあの、僕早稲田大学高等学院の…。」

おずおずと学生証を見せたところ、「早稲田か!じゃあ大丈夫だな!」と解放された。

そこではない、と結局言えずじまいだった。

「中学生」だと思われて補導されたので「高校生」だと説明しようとしたら「早稲田生」だからと解放されたのだ。

これほど歯がゆいことはない。

 

大学を中途退学するとまず、この大事な大事な「肩書き」が奪われる。

奪われるどころか、「フリーター」もしくは「ニート」と言う肩書きがその座に滑り込んでくる。

決して両者を否定するわけではない。

仕事なんて個人の自由だ、正社員よりも自由に自分の時間が取れるし、僕も今フリーター生活を満喫しているところだ。

ただ、社会はあまりそれを認めてくれない。

「信用」に関わってくるからだ。

大きな買い物をするためには必ずこの「信用」が付いて回る。

家や車のローン、会社を立ち上げるための資金、etc..

 

 

個人の関係にすら何故かこの肩書き問題は関わってくる。

僕が久々に会った友人に「大学を辞めて、仕事も辞めてしまって、今フリーターなんだよね。」と言うと大方の反応は

1.心配する。

2.無関心を装って小馬鹿にした態度を取る。

3.最早隠す気もなく馬鹿にしてくる。

このどれかだ。

本当に無関心もしくは受容してくれる人なんて希だ。

 

 

一方で大学を無事卒業するとどうだろう。

経歴には「××大学卒業」という一言が付け加えられ、よっぽど高望みをするか、怠惰でなければ、きっと安定した就職先も見つかるだろう。

今大切な人がいる、もしくは将来結婚を考えているのであれば、問答無用で大学を卒業し就職することをオススメする。

 

お金のこともある。

これが結構自分にとって大きくて、僕は大学を中途退学したことによって高校時代から積み重ねた分、ざっと1000万円を経歴上、親の財布からドブに捨ててしまった。

1000万円程度か、と思う人がもしいるならば、ください。遠慮なく貰います。

 

あと、親が泣く。

かなり泣く。

と言うか普通、「大学を辞めます」と言った息子にはいそうですかと二つ返事で了承してくれる親なんてそうそういるもんじゃない。

僕はこの人生最大のワガママを通すために、かなり力技に出ることになった。

ちょうど夜の仕事をしていたので色々な面で困ったこともなかったが、おかげさまで家の中がぐっちゃぐちゃになった。

今となってはそれを取り戻そうとしているのか、出来るだけ家にいたいと思うようになった。

個人的には、恐る恐る昼の職場に訪れた母親と、何とも言えない空気で食べたイタリアンが忘れられない。

あんな顔二度と見たくない。

 

 

◯「才能」について

二十歳までの僕は、本当に自分を「天才」だと信じて疑っていなかった。

いや今思うと本当に恥ずかしい話だ。

こんな、ブログ一つ、文章一つまともに書き上げることが出来ないのに何が「天才」なんだろう。

ただ、中学生の頃あたりから周囲とのズレが半端じゃなかったのも事実だ。

 

まず、話が合わない。

話のネタが合わないのではなく、何かを目の前に置かれた時に、それに対する感想が著しくズレる。

関心の有無すらズレる。

話のテンポ感も噛み合わない。

友人の話す内容の何が面白いのかわからず、そっと席を離れることが多かった。

 

そして、授業が恐ろしくつまらない。

教科書に書いてあることなんて一人で読んでいた方が面白い。

一々余計な質問で滞ることが酷く苦痛だった。

かと言ってさっさと手を挙げていると、何だか妙な視線を向けられる。

諦めて塾の宿題をせっせとこなせば今度は先生に怒られる。

 

当たり前の話なのだが、非常に捻くれた僕はそのままいじめられっ子コースへと進んでいった。

話を聞きつけた名前も知らない先輩に胸ぐらを捻りあげられたことなど何度あったかわからないし、不思議なことに「俺はお前のこと、応援してるぞ☆」と見知らぬヤンキーに道端で話しかけられることもあった。

何だったんだ、あれ。

 

 

ざっくり中二病まっしぐらだった僕がやっとこさ自分が「そうじゃない」ことに気付いたのは大学三年生、カフェにアルバイトとして入った時のことだった。

その冬僕は、学部が一緒の男の子と池袋へ歩いていた。

どうやら「自分の店の前に自転車を置いていたら、豊島区に撤去されてしまった」らしい。

英語の授業を一緒に受けた後だったので、暇だし散歩がてら一緒に行こう、ということになった。

その時友人から「今カフェやってるんだけど、面白いよ。」と言う話になり、将来カフェを開きたいな、と思っていたので「僕も入れてよ。」と言って面接を受けることになった。

 

 

その友人(=店長)の面接を無事パスした僕はそれから約三年間、本当に辛い目にあった。

まず、学生なんて、ほとんど何も出来ないんだと言うことを思い知らされた。

例えば企画、商品開発、接客、教育、どれを取っても社会に対抗出来る気がしなかった。

僕はその時、企画のために色々と数字を取る部門にいて、それも何故か立候補してリーダーになっていた。

 

方針決定の会議で何度差し戻しを食らったことかわからない。

いくら時間をかけて企画を練っていっても、いつも店長の「そもそもこれってさ」という一言に殺されていた。

毎週二回の会議が怖くて仕方がなかった。

唯一、本当にたった一度だけ全会一致で意見を通して、やっとこさ行動に移れる、と言う状況になったら今度は僕の体力が持たず、企画をポシャってしまった。

あの時のカフェの雰囲気は本当にやばかった。

やっとこさはらが芽を出した、と思ったら即行挫折。アホか。

 

店長は、授業中の寝ぼけた顔とは想像もつかないほど頭のキレるやつだった。

何がすごいって、まあ大体想像し得る全部がすごいんだけど、例えば頭が良いし、視野は広いし、知識も大したもんだし、人当たりも良いし、プレゼンテーションは異常に上手い。

「正直さ、カフェのことなんて俺一人で全部出来るんだよ」とまで言ってのけた。

反論出来なかった。非常に悔しい。

一番すごかったのは、「やり方を変える」ことが異常に上手かった。

彼は彼なりに「店長職」に対して不安を持っていて、よくそういう話をされた。

人を束ねることは難しいもんだなと思って見ていたが、ほんの半年の間に四度も五度もその顔を変えていった。

時に優しく寄り添い、時に厳しく叱咤し、時に頼りなさげな一面を見せる。

そういう風にスタッフへの接し方を変えることで、求められている「店長像」へ着実に近付いていった。

 

 

これには一生敵わないと思った。

自分にはそれが出来る気がしない。

世の中には確実に自分よりも優れた人間がいるものだと痛感した。

 

そういう化け物みたいな人たちは、この世の中に一定数いる。

確実に自分よりも能力が高く、一生太刀打ち出来ない人は必ずいると言うことを学んだ。

 

 

◯これからに向けて

そう、誠に残念ながら「僕たちには才能がない。」

どれだけ頑張っても、絶対に手の届かない領域がある。

 

ただ一方で、それさえ分かっていれば何てことはない。

 

だって結局自分の人生なんだもの。好きにすればいい。

 

「学生の割に」と言われて腹が立つ気持ちも十二分に分かるけれど、辞める前に「学生」という免罪符を大いに活用し、大いに失敗した方が有意義だとは思う。

「学生」である内は、酷く怒られるかもしれないけれど、大抵のことは許してもらえるものだ。

 

その特権を捨てた上で、自分の人生と向き合う覚悟があるのであれば、最早偉そうなことは何も言うまい。

ただ、「何のために大学を辞めるのか」その一つだけ教えてほしい。

硬派

ある春先の出来事、大学生だった僕は、二日間に渡って開催される理工学部のスポーツ大会に、例年通りサークル員全員で遊びに行っていた。

一日目は参加者全員、翌日二日目の大会本番に向けて大学の施設に泊まる。

新入生が初めてお酒に触れる場としては絶好のイベントだった。

 

ご想像の通り、大学のサークルの飲み会なんてものは大抵目も当てられないほど酷いもので。

一年目の僕はこの洗礼によって、飲み始めると共にぶっ倒れ、真っ青な顔で電動マッサージ機宜しくブルブルと震え、あまつさえトイレの個室に鍵をかけたまま寝始めた、らしい。

全く覚えていない。お酒って怖いね。

 

そんなイベントなもんだから上級生達はさぞ張り切る。

滅多に役目を果たすことの無いブルーシートを部屋中に敷き詰め、その内二人か三人くらいが後輩達を別室に呼び出した上で「自己紹介」の仕方を懇切丁寧に叩き込み、その上で最上級生たちの待ち受ける会場へと連れていくのだった。

 

全員が会場に揃い、最上級生だった僕はその年非常にワクワクしていた。

僕だけではない、その場にいた全員が、後輩を含め高揚感を隠しきれていなかった。

今年はどんな面白いものが、という上級生達と、大学生の飲み会という未知の世界にこれから飛び込まんとする新入生。

期待感高まる中、奴らは突然部屋を訪れた。

 

見回り担当の学部の先生達だった。

実はこのイベントは一年前から禁酒令が敷かれていた。

一年前の見回りが「お前らやりすぎるなよー笑」くらいのものだったので完全に油断していた。

その年の先生達は厳しかった。

予想打にしないシリアスムードの教員達にこってり絞られた僕たちは、することもないので渋々ブルーシートを仕舞い、大部屋に布団を敷き、寝ることにした。

いや本当は彼らが去ってから飲み会を再開しようとしたのだけれど、二週目が用意されていてこっぴどく叱られたために寝ることにした。

何て味気ない夜なんだ。残念でならない。

そこでまたドアをノックする音がした。

 

え?僕に客?

そこに居たのは学部の友達だった。

「はらちゃん、ナンパしに行こうよ。」

何てことだ、楽しみにしていた飲み会を奪われた僕に、「ナンパ」と言う甘美な響き、泊りがけの大学のイベント、蜘蛛の糸を目の前にしたカンダタのように、僕はその誘いに乗ることにした。

さらばサークル員達よ、僕は一つ大人な夜を楽しんでくるよ。と言う気持ちで意気揚々と部屋を出た。(本当に申し訳ない)

 

出たはいいが、僕はナンパなどしたことがなかった。

遊びに来ていた友達四人はある程度経験があるそうで、2-2-1に別れて女の子に声をかけることになった。

僕は友達に着いていって、まあ適当におしゃべりでもすればいいんだろう、くらいに思っていた。

始めてすぐ女の子2人組といい感じになった。

一緒に組んだ友達の話術がそれは素晴らしいもので、あとついでに彼は顔も非常に整っていて

「あの二人良くない?はらちゃんどっちがタイプ?」

と簡単な打ち合わせだけを済ませてさっさと声をかけ、さっさと近くの空き部屋を確保し、4人でお話をすることになった。

僕は終始圧倒されていた。

話しながら、「上手くいきすぎている」と悶々としていた。

しかも女の子2人とも可愛いし。何だこれは。

気付くと、一緒にお酒を飲もうよ、というお話になっていた。

 

何て夜だ。

可愛い女の子が2人、諦めていたお酒まで飲めるなんて。

お酒を飲むことになって早速、友達が僕のサークル部屋から2Lパックの焼酎をかっぱらってきた。

渡してきた後輩は「これではらさん殺っちゃってください!」とノリノリだったらしい。

何かが間違っている。

 

飲むなら部屋を変えよう、と言うことになった。

自分のサークル部屋から持って来たものだから、と僕はそのパックをむき出しのまま片手に持ち、4人で廊下を歩いていた。

その時だった。

 

「おい君待ちなさい。」

 

我々は大胆にも、教員達の待機するロビーを横切ろうとしていた。

気付けば他3人の姿はなく、あまりの冷たい声に思わず僕は立ち止まってしまった。

サークル部屋での叱り具合からして、完全にこれはマズい。

 

「君、XXXXサークルの子だな?名前を言いなさい。」

しかも所属まで割れている。

 

「後で面談を行うので、必ず来る様に。」

名前を控えられ、焼酎を奪われた僕はすっかり意気消沈し、ようやく部屋に帰って寝た。

どこかに隠れていた級友は、またどこからともなく現れて「ドンマイ」と一声かけて去っていった。

 

 

その後は非常に大変だった。

「昨今アルコールによる死亡事故が多発する中、お酒禁止の学部公認イベントで、あまつさえ焼酎の2Lパック持って走り回るとか、正直もう退学処分なんだけど反省如何によってはどうにかなる場合もあるよ」的な意味合いを含めた面接を受け、必死な思いで人生初の反省文を書き上げ、反省文の宛先を間違えたことによりまた呼び出しを受け、結果が通知されるまで死ぬほど落ち着かなかった。

これで退学になったら親に何て言えばいいんだ。

「ナンパしたら退学になりました。」

いや絶対無理だ、殺されてしまう。

 

「僕、退学になってもここに居ていいかなあ」などとサークルのキャプテンや、当時入っていた学生経営のカフェの店長に弱音をこぼしながら、その時を迎えた。

ざっくり受け取ったメールの文書には「次何かやったら問答無用で退学に処する」的な文言が入っていた。

 

 

ほっとしたのと同時に、もう本当に懲りた。

そして心を入れ替えて生きることに決めた。

とは言えお酒をやめることは不可能なので、僕はもう今後一切ナンパと言うものはしないと固く心に誓ったのであった。

理由

「はらくんて、女の子みたいな話し方をするよね」

と、昔働いていたカフェの店長に、深夜の野方ホープで言われたことがある。

ラーメンを啜るそいつは、身長は175cmくらいあるのに体重が40kgくらいしか無くて、中性的な顔立ちをしていた。

恐ろしく頭の良いやつだった。

 

「ああそれわかります。」

と答えたのは、毎晩のようにカフェに泊まって、誰よりも仕事をしていた後輩の女の子だった。

身長が160cmくらいで、こいつも体重が40kgくらいしかなかった。

 

僕らはその頃、(思い過ごしでなければ)きれいな三角形をしていた、と思う。

 

「『ふーん』てなって『そうなんだー』で終わっちゃうような話ばかりなんだよ。」

「共感の生き物ですね。」

責めるわけでもなく、事実だけを述べているような二人だった。

自覚はしていたし、特に気にするでもなくその日も僕らはカフェに帰って仕事をするか、お酒を飲んでいたと思う。

 

何というか、「ふーん」で終わってしまうような話をすることが、僕は割と好きだ。

と言うか一々オチをつけて一人で話すよりも、話題を投げっぱなしにして、それについてやいのやいの皆で突っつくのが好きだ。

突っつき方なんて何でもいい。

関係する話をしてくれて構わないし、それ自体にコメントしてくれても構わないし、何なら突拍子もないコントを始めてくれても全く構わない。

だらだらと続く時間が、心地よいと思う。

真面目な話をする時は、僕は人よりも何かを理解することに少し時間がかかるようなので、受け取って、咀嚼して、考えて、話すを少しゆっくりと繰り返していくのが好きだ。

常に相互的なコミュニケーションを求めているんだと思う。

 

それはSNSにしてもそう。

僕らが始めたばかりの頃、Twitterはもっと無法地帯で、とにかく便所の落書きのようなものを寄せ集めたようなタイムラインだったと思う。

そんな場所でも、無意識に、誰かからのリアクションを期待するようなツイートを、ついついしてしまっている。

 

そこで今回この、「ブログを書く」ということを始めるに当たって僕は思った。

「一方的なコミュニケーションの練習をしよう。」

つまり、何かを論理立てて発表する、オチをつけて話す、と言った、ある意味きちんと自己完結した文章を書く、ということだった。

それがこのブログを書く理由だ。

 

何年か後にこのブログを読んで、「"あの頃の僕は"本当に文章が下手だなあ」と笑えるようになっているといいな。

突然だが、僕のFacebookの言語は「関西弁」に設定されている。

 

「いいね」は「ええやん」になっているし、「コメントする」は「ツッコミ」、「シェア」は「わけわけ」だ。

通知ももちろん関西弁なので、「○○さんが✕✕をわけわけしたで!」という具合に来るわけだ。

東京生まれ福島育ち、関西圏には縁もゆかりも無い僕だが、案外これが気に入っている。

 

親しみやすい通知に、興味のないジャンルの話でもついつい開いてしまう。

ただ、一度だけこの通知にゾッとしたことがあった。

 

 

あれは学生経営のカフェで働いていた頃、同期の男の子と二人っきりで飲みに行った時のことだった。

仕事に追われていた僕らはたまの息抜きにと、珍しく他のスタッフ抜きで飲みに行くことに決めた。

同期の男は他に二人いたが、その二人ともが酷い下戸で二杯も飲めば赤くなって寝てしまうほどだったために、せっかくなら(比較的)飲める二人で気兼ねなく飲んで語り合おうじゃないか、という事になった。

 

当時僕には行きつけのバーが何件かあって、その内の一軒に行くことになった。

同期の子も何度か行ったことのある場所で、と言うかこの店に僕は翌年入店し、更には潰すことになるのだが、それはまた今度ゆっくり話すことにする。

 

とにかく行きつけの場所だと、常連には知り合いが多かった。

単価も安く、お客さんの内7割は学生だったために、仲良くなるのはそう難しいことではなかったのだ。

 

その日もよく会う女の子がカウンターにいて、僕らはその横に並んで座ることにした。

一杯目を頼んで待っている間、女の子と挨拶と簡単な世間話をしている内に、何だか様子がおかしいことに気付いた。

どうやら最近いい感じだった想い人と上手くいっていないとのことだった。

彼女は酷く落ち込んでいて、時たまカウンターに顔を伏せてどうすればいいの、とうーうー唸っていた。

 

一杯目の乾杯も雑に済ませ、一緒にその話を聞いていた同期は僕にこう言った。

「はらさん、これはね、もう俺らが盛り上げるしかないですよ。飲みましょう。」

いや本人を前に盛り上げようと意気込みを語るのが間違っているし、そもそも盛り上げるしかないと言うのがよく分からないし、僕らが飲んだところで果たしてそれは盛り上がるのか、と様々な思いが駆け巡った結果僕は一言こう言った。

「…お金今日あんま無いから、俺は遠慮しとくよ。」

「俺が出しますよ、飲みましょう。」

間髪入れずに逃げ道を塞がれてしまった。

さすが漢・竹内。

「恋愛とは、叶わないからこそ永遠なのだ。」と入店初日に熱く語って周囲を置いてきぼりにしただけのことはある。

潔さと自らを追い込むことに関して、彼の右に出るものはいない。

 

あたふたしている僕を他所に、彼はいつの間にか店員にロンリコのショットを二杯頼んでいた。

知っている人は知っているだろうが、このロンリコと言うお酒はとてもいいゴールドラムだ。

鼻から身体全体に心地よい甘さが吹き抜ける代わりに、度数が75.5度もある。

(参考までに、普段カクテルに入っているラム酒や、皆が大好きなテキーラは基本的に度数は40度しかない。)

誤解しないでほしい、度数がちょっとだけ高いだけで良いお酒なのだ。

何てモノを頼むんだこいつは。

 

二人でそのままロンリコによる乾杯(文字通り、「杯」を「乾かす」行為)を四度ほど済ませたところで、何だか心地よくなってきてしまった。

漢・竹内は先程から頻繁にトイレと座席を行ったり来たりしている。

僕はと言うと、悲しげな知り合いの女の子の悩みをひたすらに聞いていた。

一通り聞いたあとで、僕は彼女にこう言った。

 

「そんなしょうもない男なんかやめて、俺にしなよ。」

 

かっこいい。月9だったら彼女をこのまま抱きしめてエンドロールが流れるところだ。

抱かれたい男ランキング、という物が仮にあったとすればそこそこ戦えるのではないかと思う。

我こそはという方は、TwitterへのDMをお待ちしております。

 

しかし実際のところは深夜一時の高田馬場、横にはしゃっくりの止まらない同期を抱えながらの一言だったためにそこまでの展開は望めなかった。

ただ、「責任取ってくれるの?」と涙を拭いながら笑顔になった彼女を見て、僕は満足した。

そして調子に乗ってこうも続けた。

「もちろん、結婚しよう。」

後になってみればこれが良くなかったのだと思う。

 

その後更にロンリコを二杯ほど追加した僕と竹内の戦いは、女の子の笑顔と、泥酔した竹内を閉店した自分の店に送り届けなければならないと言うミッションを獲得し、終了した。

完全勝利と言っても差し支えないだろう。

煽ってきた同期は潰れ、女の子は笑顔になった。

なんて平和なんだ。

トイレの便器に向かい合ったまま動けなくなった竹内をよそに、僕は野方ホープへと向かった。

そしてラーメン大盛りコテコテを完食し、悠々と店に戻っていった。

これも良くなかったのだと思う、本当に。

店に戻った僕は、ようやく寝静まった彼を見て勝利を確信した。

 

「あいつは雑魚だ!!!俺が最強だ!!」と店のスタッフルームでソファに腰掛け、高笑いをしていた。

今更だが、今回の話には一切脚色を加えていない。

本当にソファに深く腰掛けて「はーはっはっは」と高笑いをしていた。

そしてその次の瞬間、僕は嘔吐した。

 

 

一気に情けなさが込み上げてきた。

竹内は一通り戦いを終え安眠についているというのに、今更になって僕は便器と向かい合い始めた。

店に残って残業をしていたスタッフが心配してトイレまで入ってきて、僕の介抱が始まった。

 

あまりお酒が飲めない割に調子に乗って強いお酒を飲み続け、あまつさえラーメンによって胃袋を圧迫し、何ならそれでも彼女が出来たわけでもなく、こうしてスタッフに迷惑を掛けていることに情けなさすぎて涙が出た。

あとなんだかよく分からないのだけれど、喉が切れてしまったらしく血が結構出て便器が赤く染まった。

それを見た後輩の女子が悲鳴をあげたのを覚えている。

 

この日の僕の記憶は号泣までで、気が付くと日は高く昇り、僕はスタッフルームの床に転がっていた。

今何時なんだろう。

二日酔い特有の気だるさを抱えながら、携帯を見た僕はそのまま固まった。

 

携帯の画面は、100件を優に超える「ええやん!」の通知と、大量のLINEの通知によって埋め尽くされていた。

 

LINEの通知には、「おめでとう!」というものがほとんどで、時たま「嘘でしょ!?何があったの!?」と言う文章が残されていた。

恐る恐る、僕はFacebookを開いた。

 

 

「はら ともひろさんが結婚しました!」

 

 

そこには、僕の交際ステータス変更のお知らせが載っていた。

おぼろげな記憶を辿ってみれば、泣いていた女の子が嬉しそうに

「ほんとに!?ちょっと携帯貸して!」

と僕の携帯電話をいじっていた…ような記憶があるような無いような気がする。

意を決して「ええやん!」の欄を開いてみれば、そこには高校時代から、大学、アルバイト先の友人、またお世話になった先生方の名前まであった。

その中には当然のように、先日亡くなった恩師の名前もあった。

 

一瞬にして二日酔いはどこかに行き、慌ててステータスを元に戻し、謝罪文を打ち込んで携帯電話の電源を切った。

 

そしてもう深酒はしないと心に誓った。

 

 

先日のお通夜の後の飲み会で、クラスメイトが「実はお見舞いに行った時に、」という話をしていて咄嗟にこの話を思い出した。

今思えば、僕と先生の最期のコミュニケーションは、この誤爆によって締めくくられていた。

 

なんて親不孝な、情けない生徒なんだろう。

いつか本当に、嬉しい報告が出来たらいいなと思う。

その節は、お騒がせし本当に申し訳ありませんでした。

昨夜スーツ屋から引き取り、「掛けておく時間の方が長いと思うので」と言う店員さんに半ば押し負ける形で購入したハンガーにわざわざ掛け直した礼服に袖を通した僕はふと気付いた。

一緒に買った黒の靴下が無い。

 

珍しく仕事の前に、財布も携帯もイヤフォンの充電も、定期も社員証も確認したというのに何でこういう所で詰めが甘いのか。

家を出る時間は迫っている。

部屋をうろつく僕は、母親から見越したように購入した物とは違う黒の靴下を渡される。

父親から借りた数珠と、丸めた黒のネクタイと一緒にカバンの中に押し込んで、これまた購入したての黒の革靴を履いて家を出た。

矢先傘を取りにまた玄関のドアを開けた。

 

どこまでも付きまとう詰めの甘さだけでなく、仕事に向かう電車の時間が迫っていた。

 

 

人生において4回目の、そして家族と一緒に行かない初めてのお葬式に本日参列してきた。

 

 

死というものを考える機会は多々あれど、それを実際に感じる機会は意外と、もしくは幸運にも少ないと思う。

 

初めてのお葬式は小学校4年生の時だった。

当時視力が衰え始めていた僕は「そろそろメガネを作ろうね」と親から言われていた。

その日の僕は今と変わらず察しの悪い子供で、帰り際に先生に伝えられた「寄り道をせず早く家に帰るように」と言う親からの伝言に、「メガネのことかな」とウキウキしながら家に帰った。

「目が悪くなってきちゃって看板も読めないんだよ」と一緒に帰る友達に得意気に話していたことを今でも覚えている。

 

家に着いた時の物々しい雰囲気をこの先もきっと忘れない。

部屋のど真ん中に吊るされた洗濯物越しに告げられた訃報に、どういう顔をすれば良いのか分からなかった。

「人はいつか死ぬ」と言う基本的な事をすっかり忘れてしまっていた僕は、「入退院を繰り返していた祖父が亡くなった」と言う事実を受け止めきれなかったのである。

そんな僕の顔を見た父親から、「不満ならお前は行かなくていい」と告げられ、「そういう事ではない」という事すら言えず黙って車に乗る支度をした。

 

 

祖父母の家に着いた僕は、初めて何が起きたのかをを実感することになる。

仏壇の前に横たわる祖父の遺体。

部屋に入り挨拶をする僕ら家族を見ることもなく、祖母は「せっかく皆会いに来てくれたんだから目を開けてよ」と祖父に泣きついていた。

幾度となく見たような顔で、眠ったように横になっている彼はもう起きないんだという事と、それがもう取り返しのつかないことなのだと初めて分かった。

 

そこからは、訪れる親族や、名前も知らない、古くからの彼の友人たちに幾度となく振る舞われる寿司で腹を膨らましていたことしか覚えていない。

毎日繰り返される同様の振る舞いは、確実に食欲を削っていった。

 

 

 

亡くなったのは、高校時代の恩師だった。

男ばかりが50人詰め込まれたクラスの担任は、さぞ大変だったと思う。

いつも全く関係のない、聞き入ってしまうような話から始まる授業をする先生だった。

気が付くと授業が始まっている。

優しく賢く強い、マラソンと娘のことが大好きな先生だった。

 

 

斎場に着いた僕は、何だこれはと目を見張った。

目の前に、お焼香のための長蛇の列が駐車場まで出来上がっていたのである。

初めて僕は、彼の大きさを実感した。

「皆で集まって行こう」と久々に動いた高校時代のクラスのLINEグループには、「集まれる場所が無いので各自で」と連絡が来ていた。

 

 

受付の際に配られた故人からの手紙に、「もし私を植物にたとえたら何になりますか。」と言う文章があった。

その後久しぶりに集まった同級生との飲み会中に、「植物なんて、そんなに種類を知らないね」と道で見かける度に思い出せるように、また強かさを併せ持つ雑草たちが挙げられていく中で、僕は彼を一本の太い木だと思った。

地中に深く広く根を張り、しっかりとした幹から幾重も伸びる枝に、様々な色や形の実をつけるとてもとても大きな木。

 

そこになっている実は、今日並んでいた人々だ。

 

 

死や時間といった概念的なものは、それ自体を感じるのではなくそれによって起こるものによって何となく感じていく物だと思う。

 

参列者の中には、高校時代にお世話になった先生方もたくさんいた。

その誰もが、当時は見なかった皺を少しずつ刻み、頭を程度は違えど白く染めていた。

そういう視覚的な事柄や、今となってはきっと自分のことを覚えていないだろうという予想が、過ごしてきた時間を感じさせた。

 

 

今、恩師という大木を失った僕らは、地中にその実を埋め、限られた時間の中でまた新たな木を育てなければならないのだと思う。

そこになる実がどんなものなのか、今はまだ分からないし、きっとこの先も、死の淵に立つギリギリまで分からないんだろう。

ただ、何かに向けてひたすらに、その幹を伸ばすのみだと思う。

 

 

今この文章を、帰り道で故人からの手紙に載っていた「BGMにしてほしい曲」である「The Last Walz Theme」を聴きながら一発書きしている。

誤字以外でほとんど修正することなく。

今の気持ちをそのままに書くことが本当だと思うのと、修正しようと思うと言いたいことが多すぎてキリが無いからだ。

現代文の担当だった彼が見たら、頭を抱えてしまうであろうこの文章を世に放つのは本当に忍びない。

 

とか言っていたら家に着いた途端清めの塩を振るのを忘れてしまっていた。

本当に最後まで詰めが甘い。

暫くは来ないといいなと思う次の機会までには、もう少しこの甘さが抜けていたらいいなと思う。